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古渡城

歴史

 古渡城の歴史は、築城から廃城に至るまで約16年余りと短命でしたが、入城した武将は名を馳せた人物でした。

 一人目は、甲賀忍者・山岡景友です。景友は、六角氏家臣で栗東武士として名高い山岡景之の子として生まれました。

 景友は、秀吉の家臣として甲賀領を安堵されていましたが、秀吉亡き後は剃髪して山岡道阿弥と号し、家康に接近しました。

 

 関ヶ原の戦いでは、伊勢長島城の守備、桑名城攻略、近江水口城攻略に貢献し、9000石を拝領。うち4000石は、甲賀衆給分として伏見城の戦いで討死した子弟から与力10人と同心100人を与えられました。これが鉄炮隊百人組を構成したうちの一つ「甲賀組」の始まりでした。

 さらに、福知山城の小野木重勝を自刃に追い込んだ功績などもあり、慶長8(1603)年、加増され、常陸古渡1万石の大名となりました。そこで築城されたのが古渡城なのです。

 しかし、封じられてから3ヶ月も経たぬうちに景友は死去。嫡男のいなかった景友の嗣子には、婿養子の景本が候補にあがりましたが、幼かったため認められず、取り潰しとなり、山岡氏は無嗣除封により改易となりました。

 

 さて、その後に入城したのが、織田信長の重臣であった丹羽長秀の嫡男・丹羽長重です。

 長重は、関ヶ原の戦いで西軍に与し、東軍の前田利長と争ったため、戦後に改易となっていましたが、慶長8(1603)年、無嗣除封となった山岡氏の後を受けて常陸古渡藩1万石を与えられ、見事大名に返り咲きました。

 元和5(1619)年、旧江戸崎藩領1万石を加増されたことで移封となり、これに伴い古渡城は廃城、常陸古渡藩も程なくして廃藩となりました。

 その後、長重は、元和8(1622)年に棚倉藩5万石、寛永4(1627)年に白河藩10万石を与えられ、関ヶ原の戦いで領地を没収された武将の中では異例の大出世を遂げました。返り咲き武将の中でも10万石以上に達したのは丹羽長重と立花宗茂のみで、古渡城は長重にとって復活の地となったのです。

 

 御城印のデザインは、古渡城近くの茨城百景に選出された「古渡の湖畔」の夕景を描いています。

城跡について

現在、城郭跡には看板が建てられている。

参考文献

 茨城県城郭研究会 編著『改訂版 図説 茨城の城郭』

現地案内板