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江戸崎城

歴史

 築城は、室町時代初期の応永〜永享の頃(1400年代)頃と推定され、土岐原景秀が江戸崎城を修築して以来、景成ー治頼ー治英ー治綱と五代にわたる居城でした。

 

 土岐原氏のルーツを辿るには、本流である美濃土岐氏の系譜から解説するのがわかりやすい。美濃土岐氏の祖・源衡光は土岐郡に土着したため郡名をとって土岐氏を名乗り始めます。そして、衡光の曾孫にあたる定親は、美濃国加茂郡蜂屋荘に拠り、蜂屋氏を名乗り、一家を起こしました。定親の子・貞経は蜂屋氏を受け継ぎ、もう一人の子・師親は美濃国恵那郡原郷に移り住んだため原氏を名乗りました。つまり、土岐原という名字は「土岐ノ原」、土岐一族の原氏という意味を持つのです。原氏は、師親ー師秀ー秀成と続き、秀成の時に関東管領上杉憲方に従って遠く離れた信太荘に移り住み、江戸崎土岐氏の礎を築くに至ったのです。

 

 さて、時を経て、嫡男をもうけなかった第2代江戸崎城主・土岐原景成が死没すると土岐宗家から治頼が江戸崎土岐原氏の家督を相続し、3代目の江戸崎城主となりました。

 しかし、江戸崎土岐原氏としても美濃土岐氏としても大きな転機となったが天文11(1542)年のことでした。美濃土岐氏を継承し、美濃国守護の座に就いていた土岐頼芸が斎藤道三に追放され、11代にわたって美濃国守護を務めた土岐家が国盗りという事態に陥ったのです。これにより頼芸は事実上最期の美濃土岐氏当主となったのです。一方の治頼は、土岐宗家として家名を「土岐」に戻し、土岐氏の再興を図るべく尽力しました。その後、治英、治綱と続きましたが、小田原攻めに際して、佐竹義宣に滅ぼされ、永らく続いた名門土岐氏は幕引きとなりました。

 

 土岐氏が去った後は、佐竹義宣の弟・蘆名盛重が4万5千石の領主として入城し、慶長7(1602)年、秋田に去るまで居城としました。

 御城印デザインは、江戸崎城の古城図、江戸崎の珍品として進物となっていたとともに、現在でも関東では唯一、越冬のため江戸崎に飛来する国の天然記念物・オオヒシクイを描く。

城跡について

現在、城郭跡には看板が建てられている。

※山頂付近は私有地になっているため、見学の際はマナーを守るようお願いいたします。

参考文献

 茨城県城郭研究会 編著『改訂版 図説 茨城の城郭』

現地案内板