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高井城

歴史

 下総相馬氏の庶流である高井氏の居城で、取手市内では最大規模を誇る城跡です。

 守谷市にある守谷城の支城とされています。

 

 「高井」の地名は、建武3(1336)年の相馬親胤宛て「斯波家長奉書」に大鹿村とともに記載され、それが確認できる範囲での初見とされています。つまり、その時点では既に「高井」の地が相馬氏(高井氏)の領地であったと考えられます。高井城そのものの築城年は不明瞭ですが、一説によれば、長治年間(1104-1106)に信太重国が信太郡から移り住んで築城したともされますが明確なことはわかっていません。

 

 その後、天正年間(1573-1592)に高井直将が初めて高井氏を称したとされています。

直将には、治胤と胤永という2人の子がいたとされており、どちらも高井城主をつとめたと考えられます。

 しかし、「相馬氏系図」によれば、直将には子がいなかったとされているため、ここでは高井某の嫡男とまでに留めておきたいが、その相馬(高井)治胤は、相馬城としての守谷城最後の城主をつとめた人物でした。そして、その弟の相馬(高井)胤永は、最後の高井城主で、小田原攻めでは北条氏に味方したため高井氏は没落しました。

 その後、胤永の三男の子・秀胤が横瀬氏を名乗って居住しましたが、のちに広瀬氏を名乗って帰農したため廃城となりました。

 

 最後に、先述した相馬胤永にまつわる守谷の説話を紹介したいと思います。

 ある日、胤永は守谷沼のあたりに狩りに出かけました。しかし、この日は獲物に恵まれず一匹も捕まえることができませんでした。諦めて帰ろうとしたその時、一羽のシラサギが胤永の方に向かって舞い降りてくるのが見えました。胤永は「これはよい獲物だ」と、シラサギに弓を満月のように引き絞り、矢を放つと見事に命中し、捕らえることができました。胤永が上機嫌で城へ帰ると、その晩、どこからか美しい娘が現れ「われはシラサギ 野に住みて 短き命長かれと 祈りもあだに弓弦の 矢先に消えしはかなさよ」と歌いながら、着物の袖をなびかせて舞い踊り、舞が終わると煙のように消えてしまったといいます。

 

 胤永は、この日以来、無用な殺生を絶ち、シラサギが落ちたあたりに小さな祠を建ててやったといいます。それが、現在の奥山本田薬師堂だということです。

 

 御城印のデザインは、城主の相馬胤永が狩りに出た折に一羽の白鷺を射たところ美しい女性が現れ、和歌を詠んで消えてしまったため、以来殺生を絶ったという説話にちなみ、白鷺とその和歌を配す。

城跡について

現在、城郭跡は高井城址公園として整備されている。

参考文献

 茨城県城郭研究会 編著『改訂版 図説 茨城の城郭』

現地案内板