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龍ヶ崎城

歴史

 元暦元(1184)年、頼朝への忠義が篤かった下河辺政義が常陸国南部の惣地頭職に任ぜられ、龍ケ崎の地もその配下に入りました。その後、頼朝の弟・義経が謀反を起こすと、姻戚関係にあった政義は領地を没収されてしまいました。

 その後、政義と何らかの関係があったとされる龍崎氏(政義の末裔にあたるかは不明)がこの地に土着し、豪族として発展していきました。どちらが先か後かという前後関係は明らかではありませんが、「龍ケ崎」の由来は、一説では龍崎氏の名前や龍崎氏か居を構えたとされる「龍が峰」台地によるものとも考えれています。

 さて、時代がくだると北条氏対上杉氏の対立が激しさを増し、上杉氏と親しい関係を築いていた土岐氏にとって、交通の要衝でもあった「龍ケ崎」は重要地点と考えられるようになりました。やがて龍崎氏を滅した土岐氏は、現市域の中央部を治め、新たな支配拠点として「龍が峰」の地(現・竜ヶ崎第二高等学校)に龍ケ崎城を築城しました。

 文献によれば、永禄10(1567)年に改築工事が開始されたとあるため、築城自体はそれ以前になされていたものと考えられています。時の領主・土岐治英は、次男の土岐胤倫を城主としましたが、秀吉の小田原攻めの際、佐竹方に攻められ落城しました。

 御城印は、龍の墨絵と龍ケ峰の印を配す。

城跡について

現在、城址は竜ケ崎第二高等学校の敷地となっており、グラウンドの北側に空堀と土塁を残しています。

参考文献

龍ケ崎市史編さん委員会 編.『龍ヶ崎市史 中世編』.龍ヶ崎市.1998.3.