花室城は花室川東岸の南に突き出た舌状台地の先端に築城されており、小田氏と佐竹氏の両勢力によって二転三転した城であったと考えられます。築城年代については不明ですが、小田氏家臣と考えられる大津長門之助貞兼が城主を務めたとされています。
永禄12年(1569年)、佐竹義重が小田城を攻略し、帰還する際に花室城の城番衆として協力関係にあった鹿行地域の豪族である烟田氏、玉造氏、手賀氏が配置されたと「烟田旧記」に記載されており、一時的に佐竹氏が支配していたことがわかります。
しかし翌年の永禄13年(1570年)には、小田勢が侵攻してきた結城勢を平塚の地で迎え撃っており、その時の大将の一人として花室城主の大津長門之助貞兼の名前が出ていることから花室城の奪還に成功していたと考えられます。
天正元年(1573年)には太田資正の小田城攻めで占領された城を取り戻すため馳せ参じた諸侯に大津長門之助貞兼の名前があります。しかし天正2年(1574年)、佐竹氏との戦いである土浦の合戦にて大津長門之助貞兼は戦死、その子である大津図書も佐竹氏に降伏したと言われています。
廃城になった時期は定かではありませんが、豊臣政権下において領土を安堵され、佐竹氏が常陸の覇者となった天正18年(1590年)ころには廃城になったと考えられます。
現在遺構は、県道土浦学園線などに分断されており、宅地化などにより遺構のほとんどは消失している。城域には覚王寺や八坂神社などがあります。