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東條太田城

¥ 500

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東條氏は常陸平氏である大掾氏の庶家であり、平安後期に平直幹の5男である忠幹が、東条五郷と呼ばれる地を譲渡され、東條五郎左衞門尉忠幹を名乗ったことから始まります。東條五郎左衞門尉忠幹は、現在の稲敷市下太田に東條氏の居城となる東條太田城(別名 東條城)を築きます。


多くの分家を輩出し、南北朝初期には大きな勢力を誇っていた東條氏でしたが、北朝方の足利尊氏が東条五郷の一つ、高田郷を佐佐木定宗に割譲、領地を没収されたことを契機に、東條氏はそのすぐ近くに神宮寺城を築き、南朝方として挙兵します。

延元3(1338)には、南朝勢力の立て直しを図って常陸に漂着した北畠親房を受け入れ、神宮寺城に案内し支援しました。しかし、すぐに北朝方に攻撃され落城。その後、北畠親房は阿波崎城、小田城と転戦していきます。


東條氏は、興国2(1341)917日、北朝方屋代彦七信経・別府幸実ら北朝勢が東条城を含む南朝方の城に攻撃を受け、同年105日には降伏しました。余力を残して降伏した東條氏でしたが、以前のような力は失い、天文22(1553)までには、勢力を伸ばした土岐氏と婚姻関係を結び、常陸土岐氏の配下となり、東條太田城は土岐氏の支城の一つとなります。


その後、小田原征伐の際に、後北条氏と同盟を結んでいた常陸土岐氏は秀吉方佐竹義宣の弟芦名盛重配下の神野覚助に攻められ、落城。東條城の最後の城主は江戸崎城主である土岐治綱の息子、頼英でしたが、父とともに江戸崎城に詰めていたため、命を繋ぎました。この落城の際に、東条弾正が討たれ、東條氏は各地へ散り散りになったとされています。現在遺構は会社の敷地となっており、立ち入り禁止となっています。

御城印の種類

書置き, 帳面直書き