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【11月19日(日)】第13回御城印直書き会 in 石岡@ 柿岡城まつり

【第13回御城印直書き会@石岡】

常陸国の国府である石岡市の御城印の直書きを11月19日(日)に行います。

新規の御城印は下記の5種類となります。

常陸名門である大掾氏の居城「府中城」

戦国の猛将太田資正の居城「片野城」

鎌倉殿の13人でお馴染みの八田氏の末裔であり常陸のフェニックスとして知られている小田氏衰退の舞台となった「手葉井山城」

錚々たる面子が城主に入った「柿岡城」

大掾氏の非業の歴史を伝える「三村城」

 

今回は「柿岡城まつり」の日程にあわせてイベントを実施いたします。

当日は歩行者天国になるため、駐車は柿岡小学校、他臨時駐車場をご利用ください。

 

日にち:11月19日(日)

時間:9時~17時(16時半最終受付)

会場:銅山堂駐車場

駐車場:ポスター参照

※路上駐車はご遠慮ください。

※イベント後の印刷の御城印については、販売所のみの取り扱いとなります。

 

▼新規御城印について

 

 

【府中城】

 府中城は常陸の名門大掾氏が国府跡に築城し、24代に至るまで約200年以上の繁栄を支えてきた城です。
謫居童問によると陸奥の多賀城、筑前の怡土城と並ぶ日本三名古城といわれ、堅牢な城であったと伝わっています。

 御城印のデザインは大掾氏が石岡の国府跡に府中城を構えたことから、当時に思いを馳せ、ありし日の国府を描いています。大掾氏の家紋と考えられている「向い蝶」、佐竹氏の佐竹扇子」、六郷氏の六郷亀甲」、皆川氏の左二つ巴」を配しています。

【片野城

  片野城は元々はつくばの小田氏の支城でした。

 しかし常陸太田の佐竹方に奪われ、後に武蔵国岩槻城主太田美濃守資正(三楽斉)が佐竹義重の客将となった際に与えられました。

 資正はこの城を拠点に小田城主である小田氏治を攻略したと伝わっています。

 御城印のデザインは、石塚氏(太田氏とも)が片野城の守護神として、久慈郡佐竹郷天神林鎮座の七代天神を迎祀したことが始まりと伝えられている根小屋七代天神社の十二座神楽の演舞をモチーフにしています。

 家紋は太田氏の「太田桔梗」、石塚氏の「佐竹扇子」、滝川氏の「丸に竪木瓜」です。

 

【柿岡城】

 柿岡城は建久3年(1192年)柿岡時知(時家とも)によって築かれたとされています。

 柿岡氏は、常陸国守護八田知家の十男小田時知が柿岡氏(高野氏とも)を名乗ったとし、小田方の城としてこの地を治めました。

 小田氏が衰退すると、武蔵国岩槻城主太田資正の次男である梶原政景が城主となり、以後、真壁房幹、長倉義興、国分盛重、立花直次、稲葉正勝といった面々が入城しました。

 御城印のデザインは長倉義興が八幡神社を建立した際に、伊勢皇大神宮より奉納舞二十四神楽のうちの十二神楽舞を持ち帰り、八幡神社へ奉納したのが発祥といわれている十二神楽、地元では音の響きから「柿岡のジャカモコジャン」という愛称で親しまれている舞を描いています。

 家紋は柿岡氏の「州浜梶原氏の太田桔梗真壁氏の、長倉氏の「佐竹扇子」、国分氏の「九曜」、立花氏の「杏葉紋」、稲葉氏の「折敷に三文字」です。

【手葉井山城(別名膳棚城、長峰城)】

  手葉井山城は小田氏方の城であり、つくばの小田氏と常陸太田の佐竹氏が戦い、小田氏の衰退のきっかけとなった手這井山合戦の舞台でもあります。(手這井山合戦が行われた正確な場所は明確にわかっていません)

 手這坂合戦の内容は諸説ありますが、片野城を奪われた小田氏が永禄12年(1569年)10月に片野城奪還を目指し兵をおこし、柿岡城を攻め込みますが、城主であった梶原政景が佐竹氏に援軍を求め、父である太田資正、、真壁氏と合流。

 手這坂にて両者が激突し、序盤こそ優位に立っていた小田勢でしたが、真壁勢がもっていた鉄砲を活用し、小田氏の重臣である岡見氏などを失うこととなりました。

 このことから、この合戦は常陸の名族小田氏が衰退した大きな要因として知られています。

 御城印のデザインは小田勢(岡見氏)が先陣を切って、佐竹勢(真壁勢)に向かっていく様を描いています。

 家紋は小田氏の「州浜」です。

 【三村城

 三村城は府中城の城主大掾貞国の弟である大掾常春が城主を務めた城です。
 三村城にはこのような民話が残っています。

 

 

 天正元年二月、府中の城主、大掾(平)貞国(常春の兄)は、小川の城主(園部)を攻めようとしていた。そして三村の城主、常春も兄に加勢のため三村城の本丸に集まっていた。その時、城の北方の入江で、すさまじい物音がするので、何事かと城兵が駆けつけてみると、大鷲(わし)と大鰻(うなぎ)がものすごい争いをしていた。大鷲は水中の大鰻をさらっていこうと空より舞い降りてするどい爪で攻撃し、一方大鰻は、そうはさせじと必死になって大鷲の首に体を巻きつけて締め上げていた。大鷲は、それをふりほどこうとおおきな翼をばたつかせ、水しぶきが大きく飛び散り、血が大きな渦巻きとなって辺りを渦巻いていた。やがて、鷲も鰻も疲れ果て、それを城の飯田七郎左衛門という兵士が撃ち殺し、城に持って帰ったのでした。

 鰻は体長五尺近くもあり、胴回りも一尺余りもありました。 また、その鰻は耳も歯も持っていたのでした。三村城で兵士たちは、出陣前にふしぎなことと思って、なにか不吉な予感も感じていたが、小川城(園部)を攻めるために船で出陣したのです。

 しかし、この不吉な予感は的中してしまうこととなった。小川勢に常陸国統一を狙う佐竹氏が見方にはいったため、大掾、三村勢は奮戦したが大敗してしまった。さらに悪いことに、城が手薄なのを見て取った小田天庵(つくば市小田)が千人の兵を率いて三村へ攻め入った。三村軍は万策つき、常春は四人の家来をつれて城から落ちのびたが、城のふもとの田に馬の足をとられ落馬してしまった。そして、ここぞとばかり小田勢は一気に常春の首をねらって攻めてきたのです。この時です、常春寺の上空にものすごい稲妻が走り、耳を覆いたくなるような雷鳴がとどろきました。追手は、体がすくみ、目もくらんでしまった。常春はこの間に、「今日を限りに」と叫び、自害したのである。若干25歳の若さであったという。

 その後、常春公は高久保に埋葬され、五輪塔が建てられた。そこには、椿の木が茂り、いまではひっそりとしている。また、大鷲と大鰻との亡骸が葬られた場所には鷲塚、鰻塚の地名が残った。

 一方、府中の城ではこの三村城の危急を聞きつけ、軍勢300余が駆けつけたが、近くの中津川台に到着して三村城を望めばすでに城は真赤な炎をあげて燃えていたのであった。常春公は府中の殿様の弟であり、助けることができなかったという思いでいっぱいになった軍兵の多くがその場で切腹して果てたといいます。(原文ママ)

 木村 進.“三村落城秘話”.茨城の民話Webアーカイブ . 2016.9.1https://www.bunkajoho.pref.ibaraki.jp/minwa/minwa/no-0801100011?f=1, (2023.8.20)

 

 

 御城印のデザインはこの民話に基づいて大鰻と大鷲が争っている様子を描き、城主常春の菩提寺である常春寺に伝わる寺宝、常春の軍配を配しています。

 家紋は大掾常春の家紋である「七曜」です。

 

 イベント当日は印刷、書置き、帳面記帳の区別なくご来場いただいた先着10名様にプレミア番号入りの御城印の頒布を行います。

尚、シリアルナンバーは現地にいる方のみ(代表で並ばれていて複数人分を買う場合、現地にいる人数分)のお渡しとなります。

 

 当日は混雑が予想されてるため、直書きに関しては一定数にて郵送対応のみの受付となる可能性がございます。あらかじめ了承くださいませ。

 

 スタッフ一同、安全なイベント運営に努めて参りますが、発熱や体調不良のある方のご来場はお控えいただき、マスク着用等の感染症対策を取った上で、お時間には余裕を持ってお越しくださいますようお願い申し上げます。