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島崎城 別名:竜巻城

歴史

島崎氏は鎌倉時代初期、常陸大掾氏の一族行方宗幹(景幹)の次子高幹が、鎌倉時代の始め島崎氏(嶋崎氏とも)を称し、居住したことに始まる。島崎城は室町時代中期に築城され、長きにわたり島崎氏代々の居城であった。


島崎氏は代々左衛門尉を称し、行方郡の中心的存在であった小高、麻生、玉造の三氏とあわせ行方四頭と呼ばれ、「足利義氏官途状」や「御年頭申上衆書立」などの資料に行方衆の筆頭として記載されており、行方四頭の中でも頭ひとつ抜きでた存在であったとされる。

戦国後期には麻生氏など同族を滅ぼしたり、鹿島氏を攻め、鹿島郡をほぼ領有。鹿嶋、行方地域の大掾一族である南方三十三館の諸侯の中でも筆頭格となっていった。

永禄年間以降には佐竹氏に従い、小田原の役にも参陣するなど佐竹氏の配下として活躍していたが、天正19年(1591)城主義幹は、佐竹氏の常陸平定における「南方三十三館の仕置き」によって佐竹義宣によって謀殺、その後まもなく落城したと言われている。

城跡について

現在、地元有志団体である「島崎城跡を守る会」によって遺構が整備されている。

関連事項

南方三十三館

中世の常陸鹿行地域に勢力を誇っていた大掾氏一族の総称で、実際に 33 の勢力があるわけではなく、「たくさんの」という意味合いで「三十三」 の数字が使われたとみられる。近世常陸の中心地である水戸の南方に彼らの所領である鹿島・行方両郡があったため、この名称が付けられたと考えられる。彼らはそれぞれ独立しており、そのため、常陸平定を目指す佐竹氏には邪魔な存在であったとされる。そのため、佐竹氏は太田城に南方三十三館の諸侯を召集、謀殺されたと言われている。(南方三十三館の仕置き)。この事件後、鹿行地域の各勢力を倒し、佐竹氏による常陸統一がなった。