歴史
大鹿城と小文間城は、互いの関係性が深いため同項で解説します。
大鹿城は、永禄年間(1558-1570)の頃、小田氏の麾下であった大鹿太郎左衛門の居城であったとされています。
現在の取手競輪場が城跡のあった場所で、遺構は完全に消滅してしまいました。
「取手市」の由来は、大鹿城の砦に由来するものと考えられています。
一方の小文間城は、創建年代等は不明ですが、幸手一色氏の一族にして小田氏の麾下であった一色宮内少輔政良の出城であるとされています。政良は、館を戸田井の「城の内城」に置いていたとされており、正確には区別されています。
さて、取手周辺にあった城には、大鹿城(大鹿太郎左衛門)、小文間城(一色宮内少輔政良)、稲城(高井十郎直徳)、そして、我孫子の柴崎城(荒木三河守)などがありますが、そのほとんどが小田方の麾下であり、味方同士であったとされています。
しかし、当時の豪族は、織田と今川の戦況を知ってか、野心を持つ者も多かったとされ、一色氏はその一人だったと考えられます。のちに、その一色氏の野心が事を引き起こします。
永禄4(1561)年、政良はどのような因縁かは不明ですが、日頃から心良く思っていなかった大鹿氏を討とうと300余騎を従えて大鹿城に攻め入りました。一色勢による突然の襲来に、大鹿太郎左衛門は150騎を従え、城の外に出て応戦しますが、多勢の奇襲攻撃に押され、ついに城を捨てて逃れます。逃がすまいと追いかける一色の家臣は太郎左衛門に矢を放ち、重傷を負わせました。その太郎左衛門のもとに応援に駆けつけたのは稲城の高井十郎直徳でした。直徳は、200余騎を従えて大鹿城に攻め込みました。その頃、大鹿城での合戦の報を聞いた柴崎城主の荒木三河守は一色氏の横暴な態度に腹を立て、300余騎を従えて留守中の小文間城に攻め入りました。留守を預かった宮川左馬之助はこれを防げず、忽ち落城しました。命からがら逃げ出した左馬之助は、政良に急を告げ、政良は小文間城を取り返すべく急いで引き返しました。政良が帰城すると踏んだ荒木勢は、雁金山で挟み撃ちにしようと陣を構え、政良は後ろから追ってきた高井勢とに挟まれました。一色勢も奮戦しましたが、ついには敗れ落ち延びていきました。
この合戦は、「雁金山(かりがねやま)の戦い」として大鹿城や小文間城をはじめとする当時の情勢を今に伝えています。
大鹿城の御城印デザインは、「雁金山の戦い」の印に、今は無き幻の城「大鹿城」の在りし日の遠景を描く。
小文間城の御城印デザインは、城主・一色氏の墓所があったとされる場所を刻む石碑とその近くに聳えていた今は無き「お墓松」、小文間の永代名主を務めた美濃の斎藤龍興の血筋・斉藤宗四郎の名が付いた「宗四郎坂」、宗四郎と一色氏に因縁のある「首切り地蔵」を描く。
城跡について
大鹿城:現在、取手競輪場となり以上は完全に消滅しています。
小文間城:東谷寺から東の民家近くに土塁と堀跡らしき遺構が僅かに確認できる。
参考文献
茨城県城郭研究会 編.『改訂版 図説 茨城の城郭』
茨城県取手市 編.『取手市史 通史編1』