4代目常陸国司。
印のデザインは、写本が現存する5国の風土記のうち東日本唯一と名高い『常陸国風土記』の編纂者に藤原宇合が比定されていることからデザインいたしました。
藤原宇合(ふじわらの うまかい)は奈良時代の公卿で初名は馬養。母は蘇我武羅自古の娘、父は右大臣である藤原不比等の三男として生を受けます。のちに宇合が式部卿を兼ねたことから宇合を祖とする一家は式家と呼ばれることになります。
霊亀2 (716) 年、遣唐副使に任命され,入唐します。帰朝後の養老3 (719) 年には正五位上、常陸守に任官されます。その際に、高橋虫麻呂を部下として『常陸国風土記』編述に関与したとの説があります。安房,上総,下総の3国の按察使(あぜち)と呼ばれる地方行政を監督、国司の行政の観察を行う役職に就きます。
同5年には正四位上、神亀1 (724) 年、文官の人事考課、礼式、及び選叙(叙位及び任官)、行賞を司り、役人養成機関である大学寮を統括する式部省の長官である式部卿、そして国家の統治に服しない辺境の諸集団を鎮定するために派遣された軍団の総指揮官で、天皇から節刀(天皇から特命の大使の標しとして下賜された刀)を授けられた持節大将軍となり、征夷のため下向しました。このことは『続日本書紀』にも記載されています。
征夷の功により、翌年従三位勲二等を授けられた宇合は、その後難波宮を造営。
天平3 (731) 年に参議となり、この時点で藤原不比等の四兄弟が全員議政官となり藤原四子政権が確立されます。同年11月には畿内副惣管に任じられ、翌年に西海道節度、同6年には正三位となりました。西海道節度に任官された際、宇合は九州に赴任し、軍事行動マニュアルである『式』を作成、約50年のちの宝亀11年(780年)になっても大宰府に対し、宇合の式に基づいて警固を行うように勅令が出ており、宇合が整備した式が後世に引き継がれ活用されていた様子が窺われます。
公卿としても軍事などの面でも活躍した宇合でしたが、天平9年(737年)8月5日に当時の流行病である痘瘡により44年の生涯を閉じました。最終官位は正三位参議式部卿兼大宰帥でした。
天皇の補佐や詔勅の宣下や叙位など、朝廷に関する職務の全般を担っていた中務省の次に大事な省とされた式部省の長官である式部卿を長く勤め、参議な重要な役職を兼ねた藤原宇合は、まさしく藤原氏隆盛の基礎を築いた藤原氏の勢いを感じさせる一例です。また宇合は詩人、歌人としても名を残しており、『万葉集』に短歌六首、日本最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』に漢詩六首を残しています。