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遠山城

歴史

遠山城は、牛久城東側の遠山町に所在し、現在は、堀状の地形となっている鹿島神社の参道および境内に空堀と土橋を確認できます。

 その他の遺構は、宅地化によりほぼ隠滅しており、把握は困難です。

 

 遠山郷は河内郡の一部で、小田氏が歴史舞台に台頭すると河内郡は小田氏の所領となりました。

 しかし、小田氏第9代当主・小田孝朝の時に長尾顕景と争い、長尾氏勝利の末、河内郡を没収され、遠山郷はその戦功によって顕景の子・長尾憲景の知行地となりました。

 長尾憲景は、上野国の白井長尾氏の当主で、上杉憲寛・上杉憲政・上杉謙信と3代にわたる関東管領職に仕えました。茨城県指定文化財「臼田文書」には、文安3年2月18日付の長尾憲景譲状が残されています。そこには憲景に子がいないこと、病気になったことを理由に、上杉氏家臣であった大越左京亮に遠山郷を除く常陸国河内郡足高郷や浜田村などの郷村を永代売り渡し、同じく上杉氏家臣の臼田政重に常陸国大増郷や武蔵国古尾谷などを譲り渡したとの記載が残されています。多くの知行地を領有した憲景ですが、牛久沼や小貝川など水運に恵まれた遠山郷は憲景にとって特に要地であったと考えられます。そのため大越左京亮には売り渡さず、縁者であった臼田氏に譲ったものと考えられます。

 これらのことから憲景が遠山郷を領有していたと考えられ、この間に遠山城を築城したとの言い伝えが残っているのです。しかし、残念ながら城の築城を示唆する史料は見つかっていないため真実は不明です。他方、「龍カイ(=”要害”の転訛)」や「東城台」といった小字名が残ることから岡見氏の時代には、牛久城東方を守る役割を担っていたと伝承されますが、憲景の時代からか、将又それ以前からか、予てより在地支配のために重要なポジショニングとして機能していたのかもしれません。

 さらに、偶然なことに、もう1人牛久の地にゆかりのある長尾氏がいるので紹介しましょう。由良成繁の三男にして牛久城最後の城主として入城した由良国繁の弟・長尾顕長という人物です。顕長は、足利城主・長尾景長の養子となり、景長没後は足利城主、館林城主を歴任しました。小田原合戦では、後北条氏と運命を共にし、後北条氏滅亡後、本拠地であった足利城を破却されました。その後、母の妙印尼は松井田城攻略の功に対し、秀吉から常陸牛久5400石が与えられ、のち兄の国繁が相続しました。この時、顕長も共に牛久の地に身を寄せたのです。

 牛久遠山郷を知行地とした憲景と遠山郷に隣接する牛久城に身を寄せた顕長、時代が交錯しながらも近接した地に現れた2人の長尾氏には「合縁奇縁」とでも言うべき何かを感じます。御城印デザインは、城域とされる遠山鹿島神社の鳥居と御社、長尾氏の九曜巴と岡見氏の洲浜をエンボス加工風に配しています。

城跡について

現在、鹿島神社付近に僅かに土塁などの遺構が確認できます。

参考文献

牛久市史編さん委員会 編.『牛久市史 原始古代中世』.牛久市.2004年