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泊崎城(別名 :八崎城)

歴史

 読みは「はっさきじょう」で、現在の表記では「泊崎」と書きますが、諸文献には「八崎」表記も散見されます。

 さて、岡見氏と争っていた多賀谷氏は、天正14(1586)年、岡見領へと侵攻し、小張城を陥落させると岡見氏西の重要拠点であった足高城を攻撃しました。しかし、岡見氏の必死の防戦もあり、多賀谷氏は撃退されました。

 そこで、天正15(1587)年、岡見氏の2大居城であった牛久城と足高城を分断するために、多賀谷重経によってその中間地点に築城されたのが泊崎城でした。岡見氏にとって泊崎の地は、牛久沼を挟み、東西の二大拠点であった牛久城・東林寺城と足高城・板橋城などを結ぶ重要地点でした。

 つまり、泊崎の地に楔を打ち込むことは、岡見氏を攻略したい多賀谷氏にとって最も合理的な方法だったのでしょう。それにつけても、秀吉の墨俣一夜城を彷彿とさせるかの如く敵地での大胆な築城には驚嘆させられるとともに地理的な条件が重なった稀有な例と言えます。

 そして、この泊崎城の築城を機に、再び足高城に攻め入りますが、再び多賀谷勢が敗走する結果となりました。是が非でも足高城を攻略したい多賀谷勢は、岡見氏家臣・月岡玄蕃の居城であった板橋城を陥落させ、次いで同じく岡見氏家臣・只越尾張守の居城であった岩崎城も落城させ、外堀を落としてから三度目の足高城攻撃を決行しました。

 天正16(1588)年、足高城主岡見宗治の祖父・岡見入道が多賀谷方に内応したことによって足高城内は混乱し、遂に落城と相なったのです。このように岡見領西部は、泊崎城の築城を契機に風向きが変わり、多賀谷、岡見両氏にとって紛れもなく命運を左右する存在となったのです。現在は、宅地化により完全に遺構が消滅してしまいましたが、泊崎には「城中八幡神社」という神社が建っており、その「城中」の文字に泊崎城の面影を偲ばせています。

城跡について

現在、遺構は宅地化により遺構は確認できません。

参考文献

牛久市史編さん委員会 編.『牛久市史 原始古代中世』.牛久市.2004年