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屋代城/八代城

歴史

 南北朝期、常陸南部には東条荘(現在の稲敷市や龍ケ崎市の一部)という東條氏一族が統治する領地がありました。現在、東條氏が築城した太田城跡の北には小野川、南には新利根川が走っていることが示しているようにこの頃の東条荘周辺は海であり、東條氏一族は、「海の荘園」を治める水軍の長として南朝勢力の軍門に下りました。屋代城は、東条荘の東のはずれにある社村に位置し、社村は東條氏の一族である東條社氏の本領でした。

 南北朝の動乱では、南朝方に与し、足利方と争った東條氏でしたが、南朝方の旗色が悪くなると早々に降伏し、所領安堵に動いたとされています。このように見ると屋代城が東條社氏の城であるように思われますが、それは違うのです。史料では、南北朝期以降、東條社氏の名前は見られなくなり、代わりに信濃国の屋代氏なる人物が入村したことが確認できます。

 さて、東條社氏に代わって社村に入った屋代氏とは、どんな人物だったのでしょうか。屋代氏は、信濃国倉科荘加納屋代四ヶ村を治める有力な一族でした。やがて、南北朝の動乱期に突入し、常陸南朝方の討伐のために高師冬が鎌倉へ派遣されると、高師冬に準ずる地位にあったとされる屋代信経をはじめ屋代氏一族は、拠点を関東へと移し、幕府奉公衆の屋代一族と鎌倉府奉公衆の屋代一族に分かれて足利氏に仕えるようになりました。その後、屋代氏は、永和3(1377)年以前に東条荘社村を拝領しています。

 しかし、なぜ多くの所領を安堵されていたはずの東條氏が社村を失ったのでしょうか。それは恐らく、東條氏一族全体が足利氏に降伏していたわけではなく、最後まで南朝方について戦った者もおり、その結果、社村を没収されたと考えるのが妥当と考えられます。

 しかして、屋代氏が同名の「やしろ」村を拝領したという偶然の事実には興味深いものがあります。さて、屋代城は、屋代氏が社村に入った14世紀半ば過ぎ頃の屋代氏の居館に始まり、次第に城へと発展していったと考えられます。16世紀初め頃になると、常陸国西南部で小田氏が最大勢力を誇るようになり、さらに南進しようとする小田氏に強い抵抗を見せたのが土岐氏でした。この対立の中にあって、小田氏に味方した屋代氏は、対立の渦中に巻き込まれていきます。その衝突が大永3(1523)年の「屋代要害合戦」です。この合戦は、土岐氏が小田氏に味方する屋代氏を屈服させることを目的としており、城の規模もあってか完全に攻め落とされることはありませんでしたが、屋代氏は土岐氏に屈服することとなりました。

 「関東幕注文」(=1561年)には、小田氏の麾下として名前が見られることから合戦以後、再び小田方に帰参したことが伺われますが、小田氏に従ったか、土岐氏に従ったかは不明瞭です。いずれにしても、屋代氏は、戦国末期まで龍ケ崎の地を本領としました。御城印のデザインは、屋代B遺跡(屋代城跡)から出土した籬菊双雀鏡、摺鉢、笄、鎌、石臼、古銭、仏像を配す。

城跡について

城址には城ノ内中学校があり、北側のグラウンドに土塁が残されています。

参考文献

龍ケ崎市史編さん委員会 編.『龍ヶ崎市史 中世編』.龍ヶ崎市.1998.3.