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阿波崎城

歴史

 阿波崎城も築城年代が定かではありませんが、常陸国における南北朝期史上では極めて重要な城跡であり、茨城県指定史跡となっています。

 神宮寺城が落城した後、北畠親房は阿波崎城に転戦しました。阿波崎城は浮島の対岸に位置する要害に築かれた城で、東條荘内に属すため東條氏に関連した城であったと考えられます。


 しかし、神宮寺城での戦いで勝利を収めた北朝方は親房を追うように阿波崎城へも来襲し、神宮寺城より更に短期日のうちに落城してしまいました。

 東條氏は神宮寺城と阿波崎城という2つの城を親房に提供したにも関わらず、結果的には余りに呆気なく落城して見せました。この結果のみを見ると東條氏が親房一行の支援にどれだけ本気で注力したのかには疑問が残りますが、東條氏の余裕の無さの表れとも言えるのかもしれません。


 また、親房が去った後の阿波崎城には、北朝方の佐竹義篤が入城しました。義篤は、この地の村人が食糧を補給するなどして親房一行を味方していたとして名主13人を神宮寺に集め、斬首に処しました。このとき処刑された名主たちの供養塚が今も「十三塚」として神宮寺に残されています。南朝方を支え、多くの犠牲を払ったのは、決して領主ではなく、領民をまたその一翼を担った登場人物であることを忘れてはいけないのです。


 現在、本丸跡はゴルフ場に造成されてしまったため確認することはできませんが、二の丸跡には天満宮が鎮座するとともに「准后北畠親房卿城趾」の石碑も建てられ、北畠親房の転戦を窺い知ることができます。


 御城印のデザインは、阿波崎城から霞ヶ浦を渡って小田城へ転戦し逃れるイメージ図と常陸合戦の刻印を配しています。

城跡について

現在、城郭跡は神宮寺城保存会によって整備されている。

参考文献

 茨城県城郭研究会 編著『改訂版 図説 茨城の城郭』

現地案内板