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布川城 旧称:府川城

歴史

布川城(府川城)は布川豊島氏代々の居城である。

 

城主の豊島氏は武蔵国石神井城を本拠とした武蔵豊島氏との一族であるとされている。しかし系図など不明なことが多く、はっきりとしたことはわかっていない。豊島氏について基本史料である『豊島宮城文書』と呼ばれる文書群では、武蔵豊島氏には2つの系統があり(諸説あり)、勘解由左衛門尉系と三河守系に分かれ、布川豊島氏は三河守系であるとされている。

 

詳しいことははっきりとは分かっていないが、『本土過去帳』に16世紀半以前に「妙心庵 府河大夫母」と記載があり、「府河大夫」が布川豊島氏の中心人物としていたということから、おそらく武蔵豊島氏が没落した15世期後半に、昔からの所領であった相馬郡(御厨)へ移り住むことになったと考えられる。

 

布川豊島氏は後北条方に付き、度々、地縁的つながりのある牛久城へ牛久在番衆の一角、豊島衆として牛久城に在番していた。

しかし、豊臣秀吉による「小田原の役」の際、城主の豊島貞継は篭城しますが、落城。

 

その後、徳川家康が関東に入封すると、佐竹氏の備として松平信一が城主を配しましたが「関ケ原の戦い」の功により、信一は土浦城へ移ったため廃城となった。

城跡について

現在、城跡には徳満寺や利根町役場が立っている。徳満寺には布川城の説明板が立っている。一部、空堀や土塁が確認できる。

関連事項

豊島頼継

永禄3年(1560年)に布川の曹洞寺院来見寺(旧称 頼継寺)に寺領を寄進したのが豊島三郎兵衛頼継とされている。このことが記載されている『豊島頼継寄進状』は布川豊島氏唯一の発給文書であるが、本文中で頼継寺と記載しているのにもかかわらず、宛名は来見寺と記載しているなど不自然な点があること、豊島頼継という人物が確かな資料で確認が難しいこと、そして近世に来見寺と名称を変更していること、この点から永禄の段階で来見寺という寺名が見えることに違和感があることから、この文書自体が偽文書である可能性があるとされている。ただし、豊島氏の菩提寺であるとするならば、布川豊島氏の一族の中で「頼継」の法名をもつ者がいた可能性は十分にあるとしている。

豊島貞継

豊島頼継の次の世代に登場するのが豊島貞継である。『豊島貞継過書』では下総古河の豪商、福田民部少輔に対して、領地の布川津への往来を認めていること、天正7年には、大旦那となって布川郷十一面観音を鰐口へ寄進していることが確認されている。天正前半頃から後北条氏に従い、天正10年代には布川衆として牛久城に在番していた。その後、豊臣秀吉の「小田原の役」の際、布川城に篭城したという。戦後、布川豊島氏は北条氏直と共に高野山に入ったと伝えられている。

松平信一

松平 信一は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。藤井松平家始祖・松平利長の長男。官位は従四位下・伊豆守。藤井松平家2代当主。早くから徳川家康に仕え、永禄11年(1568年)、9月12日の観音寺城の戦いに代表される対六角氏戦で、箕作城攻めにて本丸一番乗りを果たす戦功を挙げるなど、武功を重ねる。 

天正18年(1590年)、家康の関東国替えにより、下総国布川に5000石を与えられ、布川城主となった。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは江戸崎にて佐竹義宣の動向に備えたとされる。その戦功により常陸国土浦藩の初代藩主となり、3万5000石の所領を与えられた。

参考文献

龍ヶ崎市史編さん委員会 編.『龍ヶ崎市史 中世編』.龍ヶ崎教育委員会.1998