Local Activate(ローカルアクティベート)

馬坂城 別名 佐竹城、天神林城

歴史

 平安時代末期の1131年、清和源氏の源義光の孫「源昌義」が、京より下向し、佐竹郷の鶴ヶ池北東

側の洞ヶ崎峰(観音山という)に花山法皇が勅願で985年創建した「観音寺(旧佐竹寺)」に居住した。

 

 源昌義が、1133年、観音寺の対岸に馬坂館を築館し、1140年に姓を郷名の「佐竹」とした。

 佐竹宗家が「馬坂館」に居住したのは、初代昌義とその子、第2代忠義の12年間であり、1145年、

佐竹第3代「隆義」は太田城(藤原通延が1109年築城)の藤原父子を退かせ、太田城に入る。(藤原氏は小

野崎氏となる。)

 

 佐竹第3代隆義が太田城に移った後、馬坂館に入ったのは、佐竹第3代隆義の四子、義清で、村名をとり

「稲木」氏と名乗った。稲木氏が1145年から稲木氏第9代「義氏」の室町時代前期の1416年までの271

間居住した

 

 佐竹初代、昌義から第4代秀義の頃(平安時代末期の1133~1189年頃)は、馬坂館に堀や土塁等はな

く塀だけであったとされるが、稲木氏第5代義信であり、佐竹第7代である義胤の子義貞が、鎌倉時代末期

頃、本郭の東側・西側に空堀けた。

 

 さらに稲木氏第7代義武から第8代義信の頃(室町時代前期の1330~1400年初頃)、本郭の内を広く、

深くし、また、土塁を広げ、高くし、北側尾根部に堀切を設け、西郭(西城)を造ったとされる。

 

 佐竹氏12代義盛は嫡子がなく、その後継を巡って、稲木氏は1408年から山入氏等とともに反宗家側として

佐竹宗家側と抗争(山入一揆)に入り、1416年に、稲木氏第9代義氏が、佐竹宗家第3代義人の攻撃を受け

滅亡し、馬坂城は焼き払われた。

 

稲木氏滅亡後、1429~1441年、馬坂城を再興して城主になったのは、佐竹第14代義俊の二子、義成で、

村名(1394~1428年に稲木村から天神林村へ分村)の「天神林」氏名乗った。

天神林氏が、1504年までの70年間居住した。

 

室町時代中期(1429~1441年)~戦国時代に、天神林氏「義成」「義益」父子が、本郭を再興し南面崖下に腰曲

輪、外郭(外城)、外堀、西郭(西城)南西側端に袖曲輪と堀、土塁、また、外堀に3ヶ所の横矢掛を設けた。

 

天神林氏も山入一揆の際、反宗家側となり、1504年、天神林氏第2代「義益」「義兼」父子が反宗家側筆頭

「山入氏義」(国安城主)と共に、佐竹第16代「義舜」に攻められ滅亡した。

山入一揆が終結後は、家臣が城番した。(98年間)

 

1602年、佐竹氏出羽の国へ転封し、「馬坂城」は廃城となる。

城跡について

現在、地元有志団体である馬坂城保存会により遺構が整備されている。

※城跡見学のお願い※

馬坂城址の土地は、すべて私有地です。
・ 住宅地や野菜畑および散策路への立ち入りは、ご遠慮ください。 

・近隣住民や他の人への迷惑を及ぼす行為は、行わないでください。 

・城址内では、たばこ・花火等の火気は厳禁です。
・ごみ・糞は、必ず持ち帰るようにしてください。
・城址内では、安全に十分注意して行動してください。
・城址内でのいかなる事故・事件については、責任を負いません。
・駐車場以外への駐車は、ご遠慮ください。 
 天神林町より

関連事項

佐竹寺(旧称 観音寺)

 平安時代中期の985年、花山法皇が、坂東巡礼の折、天神七代の安寧を願い、勅願で、鶴が池の北、洞崎の峰に創建した観音霊場「観音寺」を建立した。

 1131年頃、源昌義が、近習8人で観音寺に下向し居住、「昌義」が、観音寺参拝の折、20尋に節が一つしかない竹を見て「吉兆成り」と姓を郷名の「佐竹」にしたと言われている。佐竹氏を名乗った1140年以降、佐竹氏の祈願寺となる。

 その後、鎌倉時代前期の1269年6代「長義」が、「佐竹寺」と改める。鎌倉幕府になって、鎌倉後家人が関わる古代以来の観音霊場として坂東33観音霊場を選定し、佐竹寺は、その22番霊場となった。

 1543年兵火で焼失した「佐竹寺」を、1546年第18代「義昭」が馬坂城の鬼門除けとして現在地に再建。

 

 1690年代には徳川光圀により本堂の内陣の6本の柱を取り除き、土間式にする、北向きにするなどの大改修があった。大正6年に本堂の大改修が行われた。仁王門・仁王尊像は、江戸時代中期の1705年に建立され、類焼した仁王門は、昭和15年に再建された。

 

 なお、明治維新の原動力となった「吉田松陰」が、1852年正月に佐竹寺に来訪、感銘を受けたという逸話が残っている。

山入一揆(山入の乱)

 山入一揆、もしくは山入の乱とも呼ばれる,佐竹宗家と山入氏を中心に100年ほど続いた佐竹一族の内乱。

 この騒乱のきっかけは12代佐竹義盛が亡くなった際,嫡子がおらず,関東管領山内上杉憲定の次男の竜保丸(のち義仁・義人・義憲と改名)を養子として迎えようとしたが、佐竹義貞の七男師義の子与義は,同門の稲木義信・長倉義景・額田義亮とともに,反対したことが契機となった。

 一門の反感の背景には、源氏の名門である佐竹氏の嫡子に、藤原氏である上杉氏からの養子を迎えることが挙げられる。


 乱の契機は嫡子問題だが、さらに鎌倉における山内上杉氏と犬懸上杉氏の対立や、関東公方と室町幕府の対立など、様々な要素が絡み合い、山入の乱が長期化した。一時,佐竹北家である佐竹義憲(北義憲とも)と山入祐義(すけよし)とが常陸の半国守護となり治ったかのように思われたが、佐竹宗家と並ぶほどの権勢を得ていた山入氏によって、佐竹宗家は太田城をおわれ、一族の大山氏に頼るなど大きな危機を迎えたこともあった。

 山入一揆は佐竹4代約100年続くことになり,これにより佐竹氏は勢力を弱め、この乱が佐竹氏の戦国大名化が遅れた要因とも云われる。

参考文献

馬坂城址保存会 提供資料

常陸太田市史 通史編 (上)