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福田城

歴史

福田城の城主は、室町時代前期には上杉家の家臣(=知久家か)が城主であったと考えられており、戦国期になると岡見氏の一族福田豊後、最後の城主は宝永年間に書かれた「野口家文書」には土岐左兵衛(土岐胤倫)とある。また下小池城と久野城の中間に位置し、土岐氏の時代には、乙戸川流域における諸勢力との境目を守る支城として機能したとされている。

城跡について

現在、城跡の一部は高照寺になっており、北西には空堀や土塁を確認することができる。また高照寺内に福田城の説明が記載された看板がある。

関連事項

土岐左兵衛(土岐胤倫)

土岐家の当主治綱の弟。福田城の城主として入った後、龍ケ崎城主となったと考えられる。江戸崎城の土岐治綱と竜ヶ崎城の土岐胤倫の間で、確執があった。これは宇都宮氏の母を持ち、嫡子として育てられた治綱と千葉氏の母をもつ胤倫の生い立ちから、後北条氏との関係性を端緒とする確執であった。宇都宮氏を通じ、反北条氏を意識する治綱、千葉氏を通じ、北条との関係強化を意識する胤倫。結果的には北条氏からの裁定により、決定的な決裂は避けたが、豊臣秀吉によって後北条氏が滅びると両者とも勢力を失った。

龍ケ崎城主であった胤倫は子の頼房や重臣と共に城を脱出して諸国を流浪。慶長4年(1599年)に胤倫は没したといわれている。

参考文献

阿見町史編纂委員会 編.『阿見町史』.阿見町.1983年.798p

龍ヶ崎市史編さん委員会 編.『龍ヶ崎市史 中世編』.龍ヶ崎教育委員会.1998年.532p