歴史
戦国時代、乙戸側沿いに江戸崎土岐(原)氏の本城である江戸崎城の支城として築城された5城のうちの一つが久野城です。(その他の4城は下久野城、上小池城、下小池城、福田城)。土岐氏の西方防備を担っていたとされています。土岐氏には他にも有力な支城として木原城、龍ヶ崎城がありました。久野城はその中継地点として龍ヶ崎にある貝原塚城と共に築城されたと考えられます。久野城の1キロ先にある観音寺に残された棟札(1559年、1562年)に久野郷領主として土岐(原)越前守(土岐卜千)の名前があり、この時点で久野郷は土岐氏の有力な一族である久野土岐氏が支配していたことがわかります。久野土岐氏は宗家から早めに分かれた分流であり、土岐(原)一族でも半独立でありつつ、主家と行動を共にする特殊な立ち位置をもつ一族でした。
土岐卜千が当主であった時に、土岐(原)氏の契機であった後継者問題の解決策として、惣領家である美濃国守護・土岐政房の三男治頼を迎える際、主導的な役割を果たしたため、江戸崎土岐氏の支配の根本にも関われる立場にありました。卜全は娘を治頼の妻とし、治頼の嫡子、治英の代で伯父という立場を確保し、一族の中で影響力を持つ存在でした。また治英の嫡子である治綱が家督を継いだ際、既に80歳を超えており、一族の長老として一目をおかれていたのは想像に難くありません。
後年には土岐氏配下の野口式部が城主として久野城主を務めていましたが、つくばの小田氏の配下で佐竹方に寝返った江戸崎監物に攻められ、久野城は落城したと伝えられています。現在の久野城跡には、野口家累代の墓があり、落城の際、野口式部がゴボウ畑で討死したことから、子孫の間ではゴボウを育ててはいけないという言い伝えが残っているといいます。御城印デザインは、城主野口式部が牛蒡畑で討死した様子とその由縁により上久野地域で牛蒡栽培がされていないことを配しています。
城跡について
城跡には土塁や空堀などの遺構が確認でき、城主である野口一族の墓所がある。
関連事項
土岐(原)氏
土岐(原)氏は常陸国南部の江戸崎を中心に勢力を誇った一族であり、のちに美濃の土岐家の名跡をついだ一族である。元は土岐氏一門の蜂屋氏の庶流で当時は「原氏」と呼ばれ、美濃国遠山壮原郷が拠点であった。
しかし、原秀成が関東管領上杉憲方に従い、関東へ下った際、常陸国信太郡を所領として与えられたことから土着した一族であった。下総国(千葉)の原氏と区別するため、「土岐原氏」、または「江戸崎土岐氏」と称するようになった。土岐(原)景成の死後、後継者が決まらなかった原家では、宗家の当主である美濃守護の土岐政房に次期党首の選定を要請したとされる。
政房は三男の治頼を江戸崎に養子として出し、土岐(原)氏を継がせた。治頼はその後、土岐(原)氏代々の役職である「信太壮政所職」の役職での職権を下にして支配を行うのではなく、久野土岐氏の頼基などを支えにしながら実力での支配を行うようになる。
「土岐系図」の一本では治頼の時に、美濃土岐氏の惣領である土岐頼芸に「土岐家惣領職」を譲られたと伝えられ、別の系図によるとその際に「土岐原氏」から「土岐氏」に名乗りを改めたとされる。こうして惣領家を継いだ江戸崎土岐氏はその後、治頼の嫡子である治英の時に最盛期を迎えるのである。
土岐卜千(卜全) 別名 土岐越前守
土岐卜千は久野城主で土岐(原)氏の有力一族である久野土岐氏(孫三朗頼基–越前守卜千–源十郎頼行)として、15世紀に前期ごろには久野郷に本拠を構えていたとされる。久野土岐氏は早めに分かれた分流であり、土岐(原)一族でも半独立でありつつ、主家と行動を共にする特殊な立ち位置をもつ一族であった。この久野土岐氏は土岐(原)氏の契機であった後継者問題の際、惣領家から治頼を迎えた際、主導的な役割を果たしたため、江戸土岐氏の支配の根本にも関われる立場にあった。
久野土岐氏の当主、卜全は娘を治頼の妻とし、治頼の嫡子、治英の代で伯父という立場を確保し、一族の中で影響力を持つ存在であった。また治英の嫡子である治綱が家督を継いだ際、既に80歳を超えており、一族の長老として一目をおかれていたのは想像に難くない。
また卜千の影響力を現す事例として、主家の前当主である治英の花押と同じ花押を用いたことが挙げられる。天正15〜16年のものと考えられている古沢城主の神崎氏に送った「卜千書状」で用いられた花押が治英と微妙な違いがあれど、ほぼ同じ形の花押を用いた。この花押が用いられたのは、大叔父として現当主の治綱を認めつつ、卜千が前当主治英の代わり実権を握っていることを示す政治的意図が感じられる。また治綱、胤倫兄弟の不和を抑止する立場にあった可能性も高く、やはり土岐一族の中で重要な立ち位置であったことは間違いない人物である。
野口式部
江戸崎土岐氏の配下で、久野城主。江戸崎監物に攻められ、久野城主野口式部は防戦するが、城は陥落したと伝えられている。その際、ゴボウ畑で討死したことから、子孫の間ではゴボウを育ててはいけないという言い伝えが残っているという。
参考文献
牛久市史編さん委員会 編.『牛久市史 原始古代中世』.牛久市.2004年
龍ヶ崎市史編さん委員会 編.『龍ヶ崎市史 中世編』.龍ヶ崎教育委員会.1998年